Stussy 25周年イベント@ageha(祝!)の為に来日したB.A.D.としても成功した過去を持つ映像作家、ドン・レッツを渋谷のホテルでキャッチ。

 1981年だっけ? つまり25年前かな? 俺のオフィス(当時西麻布)に来たのを覚えてる? 俺のレコード棚から『カミカゼ・ダブ』とか勝手にかけてたんだけど(笑)。
Don Letts(以下D):いや〜、覚えてないなぁ。

「ニュー・ウェイヴ・ルネッサンス」っていうイヴェントをラフォーレ原宿でやった時だよ。
D:あっ、初めて日本に来た時だ!

ジャマイカで『ダンスホール・クイーン』を監督したあなたともう一人の監督……名前を忘れたけど、数年前にチャンネル4で“レゲエが世界に与えた影響”について番組を作るからと俺達を取材しに来た人がいたんだ。名前を思い出せないけど…。
D:東京で? それならリック・エルグッドかな? 日本のレゲエ・シーンについて取材に来たんなら彼だと思うよ。

では、インタヴュー開始。レゲエとの出会いについて教えて下さい。
D:俺が生れた時から周りは全部レゲエだった。父はサウンド・システムを持ってたから、俺はジャマイカのカルチャーの中で生れたんだ。レゲエはアフリカのトーキング・ドラムに通じるコミュニケーション・ツールみたいなものだ。

あなたは音楽でもB.A.D.として成功したけど、映像作家としてはどこで学びましたか?
D:映像作家としては全くの独学。つまりパンク・ムーヴメントの中で背中を押されるような形で。友達がギターを手に取ってパンクを始めた時、俺も何かを始めたいという衝動にかられて手に取ったのが8ミリ・カメラだった。自分の大好きなパンク・バンドを撮り始めたのが映像作家としての原点だ。そして自分が撮っていたバンドがメジャーになり始めてレコード会社と契約すると「じゃあ、俺達のミュージック・ヴィデオを撮ってくれよ」という事になって段々と映像作家として花が開いていったんだ。

初めてのミュージック・ヴィデオは?
D:今迄に300〜400本のミュージック・ヴィデオを撮ったよ。その一番最初がパブリック・イメージ・リミテッド。クラッシュは1本目を撮って、それ以降もずっと撮ったよ。

70年代後半に俺が実際にライヴを観たイギリスのバンドだと、キース・レヴィンがいた頃のP.I.L.、デルタ・ファイヴ、クラッシュ、ストラングラーズ、キャバレー・ヴォルテール……余り観てないから訊くけど、当時のイギリスのパンク・シーンの規模は、イギリスの音楽の中でどの位の比率だったの?
D:難しいんだけど、勿論パンクはロンドンをベースに本当に小さなものから始まった訳で、ピストルズやクラッシュがツアーを始めて若者に火がついた。なぜ若者のインスピレーションを掻き立てたのかというと、当時のポピュラー音楽が大きなスタジアムで演奏するイーグルス、E.L.O.、イエスみたいなもう全然違う世界だったから。でも当時の自分達は、自分達の人生のサウンド・トラックを探していた。そして同時に70年代は社会的、経済的にどん底の時代で、それに後押しされる形でパンク・ロックと若者達が共感した。そういう時代だった。

誰かに聞いたんだけど、ピストルズがアメリカで解散した時、そのままジョン・ライドンと一緒にジャマイカに行ったとか?
D:そうだよ。ジョニー・ロットンがパパラッチから逃げる為にジャマイカに逃亡した時、俺もジャマイカに連れてって貰ったんだ。彼は俺がジャマイカを案内してくれるだろうと思ってたみたいで…。でも俺はその時が初めてのジャマイカだったから、知っている事と言えば音楽と映画『ハーダー・ゼイ・カム』だけさ。でも旅は素晴しいものだった。俺が生れてからずっと聴き続けてきたアーティスト達……I-ロイ、U-ロイ、ビッグ・ユース、タッパ・ズーキー、バーニング・スピア、コンゴス、リー・ペリー等、皆会えた。素晴しい旅だった。そしてその事でリチャード・ブランソン(当時のVirginレコード社長)と一緒にフロントラインというレーベルを立ち上げる事になるんだ。

それは、面白い話だ。
D:元々ジョニー・ロットンはレゲエの大ファンだったから、ブランソンに手を貸す形で「これはイイ、これはダメ」と言うご意見番みたいな立場で二人で立ち上げたんだ。僕達があっちにいる間に起った面白い話は、ブランソンがリー・ペリーに金を払って、ピストルズの曲の何曲かをレゲエ・ヴァージョンでやってくれ、と言って作らせたんだ。お金に目がくらんでやったウソみたいな話だ。

では、レゲエとパンクの共通点は?
D:ジャマイカが独立した時、皆喜んで「やった、自由だ!」って凄く楽観的な音楽が国中を支配した。それがスカでありロック・ステディみたいな音楽だった。だけど、時が経つにつれて「ちょっと待てよ、全然生活が楽にならないぞ。これは我々が今、感じている事の音楽ではない」という事で自分達の気持ちを反映させた音楽が必要になって生まれたのがレゲエ音楽だ。だからレゲエがジャマイカのパンクなんだ。今、Hip Hopは黒人にとってのパンクだと思うのも同じ事で、レゲエもパンクもHip Hopもそれぞれ全く音楽性は違うけど、根底に流れているインスピレーションは同じ。皆が今、生きている人達の生活のサウンド・トラックが必要だという事。皆それぞれの時代の社会的、経済的、政治的な背景によって影響を受けている。それが大きな共通点なんだ。俺の映画『パンク:アティテュード』……パンクな生き様っていうのは、モヒカンでも安全ピンでもないんだよ。それは力の話、独立の話、自由、解放って事。つまり見た目じゃない、心の中のアティテュード、生き様を俺は言っている。静かに全く音を外さずに人を刺す様な音楽だってあると思う。大きな音で速く弾くだけがパンクじゃないんだ。

すっごく分かる。
D:真実だ。そうだよね?

君は毎晩ロキシー(伝説のパンク・クラブ)でレゲエを廻してたけど、パンクスがそれを聴いて違和感はなかったの?
D:確かに俺達は全くの異文化だった。でも同化しようというよりはお互いの違いをリスペクトし合う事でより仲良くなれた。より一体化できたんだ。それが当時のロキシーで起っていた事だ。ジョー・ストラマーはドレッドじゃなかった。ドン・レッツはモヒカンではなかった。でも通じ合えたのはそういう事だ。同じになろうではなく、お互いの違いを理解する事。この映画を観る人に言いたいんだけど、決してこれは懐古主義の映画じゃない。パンク・ロックは今も決して終ってない未来の話なんだ。振り返る為のものじゃない。今これを観る人も勇気と根性とアイデアがあれば、今も息づいているこのシーンの一部になれるという事を言いたい。ずっと続いているひとつのカウンター・カルチャーの継続的な線上にあるのがパンク・ロックだ。この映画を作ったもうひとつの理由は、“70年代に出来たんだから2000年にも出来るんじゃないか?”っていうメッセージを今の皆に伝えたいからなんだ。



「Punk : Attitude」
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