コクソン・ドッド(本名クレメント・シーモア・ドッド)。彼が音楽ビジネスに携わってなかったら、現在のレゲエ・ミュージックはどうなっていただろう、と疑わずにいられなくなる程のジャマイカン・ミュージック史上最も重要な人物。その彼が5月4日、キングストンに於て心臓発作により他界した。享年72歳。その彼と生前に交流のあったソニー落合が特別寄稿。

 今頃になって、オーバーヒートから原稿を指示されて弱った。思い付くまま思い込みで書けと言われたけれど、あいにく依頼人ほどの思い込みの激しさもない。だいたい、面と向かって「コクソン」と呼べるほど親しかったわけでもない。「サー・D」という敬称で呼ぶ人さえいたのだ。僕はローランドにならって「ミスター・ドッド」と呼んでいた。気持ちとしては「ドッドさん」に近いけれど、そうすると他の人の呼称もすべて「○○さん」という風にしなければならない。悩んでいる時間が無いので、ここでは「コクソン」と書かせてもらう。

 5月4日の夜には、半時間の内に彼の訃報が4ヶ所から届き、ことの大きさを認識させられた。以前にも倒れたという知らせは聞いていたが、心配する歳でもなかった。日本の友人から、「ジャマイカのミュージシャンたちは、どんな反応をするのでしょうか」と訊かれた僕は、「微妙ですね」と答えた。

 ひとは誰でも、良い評判と悪い評判を持っている。『レゲエ・マガジン』に書いていた頃、ミュージシャンにインタビューするという苦手な役がたまに回ってきた。プロデューサーの話題になると、大抵の場合、最終的にはお金の話になってしまう、つまり悪口になってしまうので、とても寂しい思いをしたのだ。だから、僕は大好きなプロデューサーであるコクソン・ドッドの話題を努めて避けていたけれど、それでも、ローランド・アルフォンソやジャッキー・ミットゥのように、コクソンの良いことばかり話す人もいた。ローランドは、コクソンにはとても世話になったと言っていたし、ジャッキーも随分と可愛がって貰っていた。
 コクソンに最初にあったのは「ワッキーズ・スタジオ」がブロンクスにある頃。駐在員だった僕は、週末にはワッキーズに出入りしていて、ジャケットの印刷やレコードのプレスなどを手配するという、雑用、言ってみれば制作係がロイド・バーンズだとすると、僕は業務とか営業係とかいうわけだった。稀に制作会議みたいなものもスタジオで開かれて、それに参加できることが嬉しかったものだ。ロイドが気を使って、クレジットにも僕の名前を並べてくれるようになり、そしてダンスに誘ってくれたりして、人見知りだった僕も、少しずつジャマイカン・コミュニティに入っていく事が出来たのだった。

 その頃コクソンはブルックリンのフルトン・ストリートで「ミュージック・シティ」という店を開いていた。ワッキーズ盤も扱ってくれていたので、僕は店にレコードを届けに行ったり、逆に「スタジオ・ワン」の物を買いに行ったりした。物静かな、普通のおじさんだった。店では小売もしていたけれど、イギリスやドイツなど、海外の顧客からの注文が主なようで、店内には余り多くの商品は置いていなかった。旧式の印刷所から届いたジャケットで、余り目立たないように旧譜をコツコツと売るという作業をしていたので、動きの鈍いワッキーズ盤はそのカムフラージュに役立っていたのかも知れない。

 店の突き当たりの通路や階段には、空ジャケやプレス前のレーベルが積まれていて、大きい人は身体を横にして通る状態だった。奥には小さなスタジオがあり、ローランドの息子のドラマー、ノエル・アルフォンソやキーボーディストのバブロ・ブラックなどがだらだらとしていた。すでにその頃のコクソンは、自分のリズムがスラ・ロビによって勝手にリメイクされたことに怒り、「チャンネル・ワン」に乗り込んでジョー・フーキムに顔面パンチを喰らわせた、というような激しい人には見えなかった。リズムのリメイクは今でも頻繁に行われているけれど、僕はそれ自体、ジャマイカ音楽の良い一面だとも思う。

 僕がまだトライベッカのロフトにいた頃、ランキン・タクシーが泊まったことがあった。「ナンキン様という人から電話です」という妻に僕は、「誰だナンキンって、南京玉すだれか」と聞き返したそうだ。彼にコクソンの店を教えてあげると、興奮して僕の自転車をこいでコクソンに会いに行っていた。中華街を抜けてブルックリン橋を渡って、かなり距離はあるはずだけれど、あの頃からランキンは乱暴だった。

 86年に僕がニュージャージーに越すのを機会に、ワッキーズ・スタジオをその地下室に移した。87年の末頃、マックス・ロメオのアルバムを作るために、プロデューサーとして、ロンドンからリー・スクラッチ・ペリーを呼んだ。一ヶ月我が家に泊まってもらい、楽しく過ごした時間を文章にしたことがある。その時にスクラッチをコクソンのところに連れて行った。僕は二人が長い間会っていないなら、懐かしいだろうと思った。喧嘩別れしたなんて知らなかったのだ。

 コクソンは写真嫌いだったそうだが、僕はボブ・マーリーのポスターの前で彼らのツー・ショットを撮った。お互いに最初はぎこちなかったけれど、すぐに酒盛りになって、昔話が続いた。二人とも正直な人なんだなという印象だった。酔っ払ったスクラッチは帰りの車の中で思いっきり吐いたのだった。

 あるとき僕はコクソンから、「いつも我々のアーティストの面倒をみてくれて有難う」と言われて驚いた。それはタイガーが米国移民局に逮捕された事件で、ニューヨーク、コネチカット、そしてボストンと、右往左往していた頃だった。僕がタイガーを釈放させる為に奔走していることを誰かから聞いて、多分それを有難うと言ってくれたのだろうが、その情報の速さよりも、コクソンとまったく接点のなさそうな新人アーティストのことで、彼が僕に礼を言うことの方に驚かされたのだった。

 シュガー・マイノットと東北巡業をした時の話だ。八戸、小岩井農場、湯元温泉、松島、石巻などをまわって、仙台のショウの前に、僕はシュガーと口論になった。レコーディングの為に僕が用意したお金が彼に届かず、間にいる人のところで消えてしまっていたからだ。その時にシュガーは僕のことを、「結局お前もコクソンと同じだ」と罵ったのだ。僕はとても腹を立てて、一日中彼と口を利かなかった。シュガーは僕を怒らせようとしてコクソンの名前を僕にぶつけたのには違いないのだけれど、あとで考えると、僕は光栄に思うべきだったのかも知れない。

 その後シュガーとは誤解も解けて仲直りした。そして、このツアーの直後にコクソンの店を訪ねた時には、奥のスタジオでボーカルを入れている楽しそうなシュガーを目撃し、アーティストとプロデューサーの関係について、深く考えさせられるものがあった。

 1990年の暮れにジャッキー・ミットゥが42歳で亡くなった時、追悼コンサートを主催したのもコクソンだった。モンティゴ・ベイでの本葬の前日のことだ。キングストンのナショナル・アリーナに安置された棺の前で旧友たちが演奏し、ケン・ブースやデルロイ・ウィルソンらが追悼の歌を捧げ、ジャッキーとの別れを惜しんだ。

 翌日の『エンクワイアー』という地元の新聞には、ハンカチを目にあてるコクソンの写真が掲載されていた。参列者の一人として僕の名が、ソニー・ホー・チョイという、怪しいアジア人風に書かれていて笑われたことと一緒に思い出す。コクソンは式典のあと、僕たちを「ブレントフォード・ロード13番地」にあるスタジオ・ワンに招待してくれて、皆でビールを飲みながらジャッキーの思い出話をしたのだった。

 ところで、このブレントフォード・ロードだが、ジャマイカ政府は、コクソンの功績を称えてこの道路を「スタジオ・ワン・ブルーバード」という名前に変えたのだ。4月30日のこのセレモニーに出席する為にコクソンはジャマイカに帰っていて、その数日後に亡くなったのだった。道路には通常、叙勲される人の名前が付けられたりするが、彼は自分の名前でなく、スタジオの名が付けられたことを誰よりも喜んでいたそうだ。

 今年の3月に「VPレコード」からジャッキーの追悼盤CDが出た。ジャッキーの曲をジャマイカのミュージシャンが再演しているものだ。細かいところまでチェックしている人は気がついたと思うけれど、収録されている18曲すべての著作権のクレジットがジャッキーになっている。これは印税の全部が、ジャッキーの遺族に支払われるように配慮された企画でもある。僕も含めてCDの覚書に文章を寄せている者や、演奏しているミュージシャンたちは、皆この趣旨に賛同して参加したわけだった。僕はこのプロジェクトを製作者から聞いた時、コクソンが怒るに違いないと思った。心配した通り、発売されるとすぐにコクソンからVPの社長、クリス・チンに抗議の電話があったそうだ。結局は「ジャッキー・ミットゥ・エステイト」の顧問弁護士との交渉になるので、コクソンは諦めるだろうというのが僕の予想だった。もう充分に稼いだのだし、老後の蓄えもあるのだからいいじゃないかという思いと、ちょっと気の毒だなという気もした。

 例えばコクソンとジャッキーの間に、不公平な金銭関係が無かったと主張しても、他の人たち、特に遺産らしきものを全く残されなかった遺族はそう思わないだろう。人間関係だけで成り立ってきた、ジャマイカ音楽業界の宿命かも知れない。ご免なさい、少しつらい話で。

 ジャッキーが生前、僕に映画を作れと言っていたのを思い出す。強いアルコールなら何でも好きだった。それをストレートで飲みながら、あのいつもの笑顔で言うのだ。

 「コクソンを主役にしたドキュメンタリーを撮って、ミュージシャンたちのインタビューでつなぐだけで、最高のコメディが出来るはずだから。スポンサーを探して来いよ。出演者には全員俺が話をつけるから」

 あの時はただのジョークだと思ったけれど、もしも実現させていれば、もう少しだけコクソンと過ごす機会もあっただろうし、楽しかったはず。さよなら、そして有難う、ミスター・ドッド。あなたが遺してくれた数々のジャマイカ音楽は、これからもずっと僕たちの宝物。





Photo by Sonny Ochiai