Te ssssssText by Hiroshi Egaitsuxt by Hiro


 音楽革命=ブレイク・ビーツが生まれた瞬間、その現場にはTechnics SL-1200があったし、それから時が経った今でも当然の様に現場にはSL-1200がいる。そのSL-1200が今年30周年を迎え、新製品の発表に加え、日米屈指のターンテーブリストが集結するイベント「SL-1200 NIGHT」までも開催するという。一体そのブレイク・ビーツはどんな風にして生まれたのか? これを機にもう一度再検証してみよう。

 ストリートを忘れることは出来ない。それは野卑なものの中に隠された輝く宝石の発見出来る場所であり、ヒップホップはまさにその宝石に違いなかった。しかし、この宝石はただ発掘されたのではない。この宝石が輝き出すためにはそれが生まれた場所、ニューヨークはブロンクスから遠く離れた日本という小さな島国の勤勉かつ冒険的、夢を抱いた技術者たちの努力がなくてはならなかったのだ。

ニューヨーク、ブロンクスは、ジャマイカからやって来たクライヴ・キャンベル少年が1967年に到着した際には既に変貌を遂げつつあったという。彼がやって来た国ジャマイカ、キングストンで馴染んでいたゲットーにそれは変貌しつつあったのだ。この地域は危険で、特にストリート・ギャングと呼ばれる若者達の集団が“都市のジャングル”を跋扈していた。コミュニティがその残骸をさらけ出し、暗闇の中で銃声や悲鳴、レイプ、ドラッグの取引が行われるようになったのは正確にはいつのことだったのか? 

しかし、1970年代にはもう全てが手遅れだった。多くの以前の住民は住環境が劣悪化していくに従い他の場所へ移っていった。そして、残骸となった街に移ってきた人々は“リトル・ヴェトナム”(ヴェトナム戦争を考慮に入れて)とまで呼ばれるような状況に身を置くようになる。

 こうしたなかクライヴ・キャンベル少年は高校で体を鍛え上げた彼のニックネームはハーク(ハーキュローズの短縮形)になり、彼はそのニックネームをマーカーで街角に書き殴りながら(既にグラフィティは街中に氾濫していた)全盛期だった無数のストリート・ギャングの中の最大級のグループ、ブラックスペーズなどが常連のプラザトンネルといったディスコに通うようになった。ちなみに、ブラック・スペーズのサウスブロンクス支部にはクール・ハークと共にヒップホップというアートフォームに大きな貢献をしたアフリカ・バンバータがいた。実際には彼は支部の首領だった。さて、この物語の何処に日本人が?

 1973年にクール・ハークは妹の誕生日パーティのためにレコードと機材を用意してDJを始めた。彼は当時その流行の頂点にあったディスコとは少し違ったテイストの主にヘヴィなファンクを中心にプレイすることで人気を得るようになった。有名な曲でも、例えばジェームス・ブラウンの「Give It Up, Or Turn It Loose」などといった曲間の途中のドラムやパーカッションだけのパートになると集まってきた客が興奮することを発見し、同じレコードを2枚用意して延々とその部分、ブレイク・パートをプレイすること、そして彼の巨大なサウンドシステムでローカルではあったが実は革新的なプレイをしていたのだ。

また、同時期に音楽にのめり込んでいたアフリカ・バンバータは、ギャング活動が長く続き疲弊していくメンバー達を見ながら、自分達の生きていく道を模索していく。はした金にしかならない麻薬の取引を20歳過ぎても続けていられるだろうか? 終わりのない暴力の果てに未来はあるだろうか? そうじゃない、彼はズールーという集団を作り、“マスターズ・オブ・レコーズ”と呼ばれるような幅広いコレクションを使い、巧みな選曲で観客を興奮させ、彼らのエネルギーをクリエイティヴな方向へと向けるのだ。

この頃にはブロンクスには多くのDJ達がいたが、親戚の(まだ子供だった)グランドウィザード・セオドアが偶然発見したスクラッチを巧みにプレイに取りいれるグランドマスター・フラッシュ、クール・ハーク、アフリカ・バンバータといった3人のDJがブレイクダンサー達が好むヘヴィなファンク、もしくは“Bビート・ミュージック”として知られていた音楽をプレイして有名になっていく。

これがその後のポップミュージックのコンセプト全体に大きな影響を与えるブレイクビーツ〜ヒップホップの誕生〜発展だった。そう、そして彼らヒップホップの開拓者たちが使っていたのがテクニクスのターン・テーブルだったのである。ストリートを忘れることは出来ない。それは隠された輝く宝石の宝庫である。しかし、文字通り、日本のテクノロジーがなければ、それは不可能だった。クール・ハークがテクニクスのターン・テーブルを使ったのは、おそらくダイレクト・ドライヴ方式でなければ不可能だった数々のトリック(それは今ではトリックという言葉の域を遥かに超えた何かになっている)が可能であったからだ。そして、こうした技術がなければ、ヒップホップは誕生しなかった。それならば、こうした言い方も可能だろう。

日本のテクノロジーがなければ、ヒップホップは誕生しなかったのではないか? 大袈裟にものを言っているのではない。ただ歴史がそう語っている。時間を経ても、こうした事実はこちらから近付けば雄弁に真実を語ってくれる。クール・ハークはヒップホップのゴッドファーザーである。そして、彼がテクニクスを使い、アフリカ・バンバータが使い、セオドアやジャジー・ジェイが使った時、それはヒップホップ、20世紀後半のポップ・ミュージック最大の爆発の事実上導火線に火がつけられたのである。

 これらのムーヴメントの担い手は高校ドロップアウトのような層の連中だった。ヒップホップは金のためでなく彼らの輝く名誉のためにストリートで進化してきたのだ。ヒップホップは大学出のホワイト・カラーの連中がマーケティングをするようなものではなかった。この事実は勇気づけられる。20世紀後半最大のポップ・ミュージックの改革は当時最も蔑まされていたかも知れない層の人間達から生まれてきたのだ。しかし、それだけではなかった。日本の技術者たちの生み出したテクノロジーがなければ、ヒップホップはあり得なかったのだ。そうだ!

 ヒップホップは音楽のすべてを変えた。それはビートルズのレコードに発見出来きなかった何かを持っていた。それはまったく新しいアート・フォームだった。それは後の(2000年を越えてさえ)多くの人々のライフ・スタイルになった。ブレイク・ビーツというコンセプトを日本人が発見したのではない。テクニクスがブレイク・ビーツを発見したのではないが、しかし、もしあのターンテーブル、SL-1200がなかったとしたら…。歴史はまったく変わったものになっていたかも知れない。ブレイク・ビーツは音楽のすべてのフェイズを変化させた。テクノ、2ステップ、文字通りのブレイク・ビーツ・ミュージック…『オーシャンズ11』のようなハリウッドの莫大な予算の映画でさえ、ブレイク・ビーツがなければなかっただろう。

 ブロンクスに日本人がいたわけではない。しかし、ブロンクスに日本のテクノロジーを理解し、それを使いこなせる人間がいた。アクロバティックな方法で。テクノロジーとストリート。これ以上の組み合わせがあるだろうか? あるのなら、誰か僕に教えてほしい。


[SL-1200 30th Anniversary -
Technics presents SL-1200 Night]

2002.11.17 (Sun) at Club Citta' / 17:00 Start / Adv 5,000yen Day 5,500yen
feat. Dilated Peoples, Beat Junkies, DJ Krush, DJ Muro, DJ Yutaka, DJ Nozawa,
GM-Yoshi, DJ Shark, Mighty Crown, Ryu (mc) [Call] Overheat Music 03-3406-8970