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309    COLUMN    UK REPORT

Photo & Text by SIMON "MAVERICK" BUCKLAND

Alton Ellis
 
Greetings Friends,
 
●レゲエ黄金時代を築いたシンガーが次々と帰らぬ人となっていく。このことがほぼ日常化してしまったような気がするほどその数は多い。僕が訃報記事を書くことも、この10年間で本当に多くなった。Alton Ellis O.D.が10月11日の日曜日午後3時頃、癌との長い戦いに敗れ、ウェスト・ロンドンのRoyal Hammersmith病院で死去した。このベテラン・シンガーの死は、僕にとって特別の思い入れがある。
 
多くのファンにとって、彼はメッセージ・ソングもラヴ・ソングも歌うことができる完璧なアーティストだった。Marleyはメッセージ・ソングの第一人者として世界中に知られているが、Altonはファンの心にいつも一番近いシンガーだった。僕らは彼の音楽と共に歩み、彼の音楽は僕らの人生のサウンド・トラックだった。彼の訃報を知った人々はたくさんの涙を流したに違いない。僕らは、いつかこの時が来ること頭では理解していた。しかし、それでも彼の死は僕らを本当に悲しませるものだった。
 
Altonはジャマイカン・ミュージックにおける真のパイオニアであり、その礎だ。ユニークな島国の音楽が生んだ初の“正当派”スターだった。1939年にキングンストンに生まれTrenchtownで育ったAltonは、ボクシング、歌、ダンスとクリケットにのめり込んだ。新人歌手の登竜門だった「Vere Johns Opportunity Hour」という有名なラジオ番組出演によりシンガーとしブレイクする前は、ボクサーとダンサーを経験している。AltonはEddie Perkinsというシンガーとデュオを組み、1959年にCoxsone Doddがプロデュースした「Muriel」で初ヒットを飛ばす。Coxsoneもサウンドシステム・マンを何年か経験した後にプロデューサーとしての仕事を始めたばかりだった。Perkinsがコンペで優勝しアメリカに渡ってしまった後、Altonはソロで活動を続け、Coxsoneと彼のライバルDuke Reidの下でレコーディングを重ねていった。この2人以外のプロデューサーとも仕事はしていたが、Altonはこのライバル関係だった2人に、その後に彼らのカタログの主役になっていく数多くの名曲を残していった。
 
スカ創成期からAltonがオリジネーターだとされるロックステディ、そしてレゲエと、彼はいつの時代にも名曲を残していった。彼は活躍の場を母国以外にも求めた。Studio Oneによる1967年に行われたSoul VendorsのUKツアーに同行。ヴォーカリスト仲間のKen Bootheと共にアメリカ、そしてカナダへと渡った。ルードボーイ達が全盛を極めたキングストンのゲットーは、彼らに対し厳しい態度をとってきたAltonにとり、もはや安全な場所ではなくなったしまったのだ。
 
1973年にAltonはEnglandに移住し、レコーディングやツアーなど、病に倒れる直前まで活動を続けた。1983年には、Sunsplashでの凱旋公演を成功させて高い評価を得る。このショーはジャマカイカの人々が彼の偉大さを知るきっかけとなった。デビュー25周年だった1984年には記念のライヴと、彼の曲をメドレー・スタイルで繋いだベスト盤がリリースされ、アーティストとしての一つの頂点を迎える。その後、彼はノンストップで活動する。外国にも積極的に出向きファンと接することを怠らなかった。UKで録音された数々の傑作(1980年代初期のJunjo LawesやJammyプロデュースによるもの)以外にも彼はアメリカ、カナダ、フランスなどでクオリティの高い曲をレコーディングしている。例えば、アルバム『Slummin』(“Daydreaming”というタイトルでもリリースされた)は派手で中身の無い音楽が流行していた時代にリリースされたせいで、評価は芳しくなかった。どの曲を聴いても質の高さが滲み出てくるほどの傑作だ。
 
1990年代の中頃にAltonは「Order Of Distinction」勲章をジャマイカ政府より授与される。彼のジャマイカン音楽に対する功績がやっと認められたのだが、この頃もAltonは評価の高い曲を生み出したとしても、それに見合った報酬を受け取っていなかったようだ。プロモーターとしてHammersmith Palaisで「リバイバル・ショー」を毎年開催、自身も出演した。評論家や観客は喝采を送ったが、経済的事情によりこのイベントは中止に追い込まれる。彼は結局ビジネスマンではなく、彼の曲の中で歌っているように“Just A Guy(フツーの男)”だった。例え事業がうまくいかなくなったとしも彼のシンガーとしてのキャリアは傷つくことはなかったのだ。
 
今さら彼の名曲を羅列する必要はないだろう。もしAltonがアメリカで生まれていたら、Curtis Mayfield、Smokey Robinson、またはMarvin Gayeのようなスーパー・スターになっていたに違いない。現在はスタジオとなっているWillesdenのBrent Black Music Co-operativeで行われたお別れの会では、家族の他にたくさんの友人とファンが集まった。Altonの遺体はジャマイカに運ばれ、英雄のように葬られることになっている。僕のようなファンにとってAlton Ellisはスーパー・スターだ。彼の思い出は永遠に生き続けるだろう。
 
Alton We Love You......
 
●Alton Ellis死去のニュースに隠れてしまった感もあるが、プロデューサー、Larry LawrenceもNotting Hill Carnivalが行われた週末に、Altonと同じように癌で命を落とした。Lawrenceはヴォーカリストのようにシーンの最前線で活躍していたわけではないが、プロデューサー兼レーベル・オーナーとしてUKレゲエ・ミュージック・シーンに多大なる貢献をしたのだ。
 
1947年にジャマイカに生まれ、1965年頃にUKに移住。自らのサウンドシステムを運営した後、1970年からTrojan傘下のBig Shot、Duke、そしてJackpotなどのレーベルでプロデューサーを務めた。その他に彼はTorpedo、BambooやMelodiscなどに曲のライセンス提供も始める。LarryはUKに来るジャマイカン・アーティストの非公式ツアー・マネージャーとしても活躍。当時設立されたばかりのCreole Recordsの所属プロデューサーになった。やがて、彼はレコード・ショップと自身のレーベル、EthnicとFightを立ち上げる。後に2つのレーベルはEthnic Fightというひとつのレーベルに集約された。彼はそのレーベルから多数のヒット曲をリリース。Brixtonにある彼のシュップはアーティストやプロデューサーに人気のスポットとなった。しかし、1990年代にジャマイカン・ミュージックの質とセールスの低下に落胆したLarryは、ショップを畳んでしまったが、同じ場所にカリブ料理のレストランをオープンした。レストランはかつてのレコード・ショップのように繁盛していたそうだ。レゲエ業界はまた惜しい人を亡くした。

Till Next Time, Take Care..........
  
(訳/Masaaki Otsuka)

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